希望の島プロジェクト 仲間たちのブログ

« 祝・開園! | ホーム | 松山、坂の上の雲、しまの会社。 »


島と戦争

戦争が終わって64年の歳月が経った。
戦争の記憶を人々の中にとどめようとしてか、毎年この季節にはTVや新聞が戦争特集を組む。

しかし戦後生まれの世代が高齢者と呼ばれる年代へと移行していく今、
戦争を知らない親に育てられた若者たちにとって、
TV画面や紙面を通して見る戦争は遠い世界の出来事となりつつあるのかもしれない。

それはそれで仕方のないことかもしれないとも思いつつ、
人間と人間社会を考える上で、日本人が最も直近に経験したこの戦争のことを身近に感じてみることはとても大事なことに思えて、ふとCafeの棚に並べてあった弓削町誌という分厚い本(旧弓削町時代の昭和61年刊行)をめくってみた。

1382ページという膨大な記述の中で、戦争に関する記事は、思いのほか少ない。
行財政、産業、教育の項目の中からいくつかを拾う。

ちなみに、この町誌によると戦争当時の弓削地域の人口は、昭和15年の統計で、5023人、戦後まもなくの昭和22年には6665人となっている。いずれも現在の人口(3500人程度)に比べれば、ずいぶん多い。

行財政「行政機構」の項より、
「昭和15年(1940)年9月11日の内務省訓令に基づき、部落会及び町内会の下に、隣組が実行組織として設けられた。10戸内外を基準とし、なるべく古い時代の五人組、十人組のしきたりを取り入れて組織され、組長の家で縷々常会が開かれた。昭和17年(1942)年5月には、これらの組織が、大政翼賛会の指導下におかれると、隣組長は、翼賛会の世話人となった。(中略)弓削にも、昭和16年(1941)12月22日の『村常会の指示事項及協議問題』なる通達が残っている。この通達は、村長よりのものと思われるが、これに従って組長は、組内の人々に伝達した。記載されている件は、その一つひとつが当時を物語るものである
一、防空ニ関スル件         一、糯米(もちごめ)配給ノ件
一、防諜ニ関スル件         一、家兎毛皮集荷ニ関スル件
一、宣戦奉告祭及祈願祭ノ件   一、生甘藷供出ニ関スル件
一、正月実行並年末年始ノ件   一、米穀管理米ニ就イテ
一、酒配給ノ件

同じく昭和16年12月22日の、村長からの通達の中に、
『 五 隣保協同 力強ク和ヤカニ
  決戦態勢下ノ新年ニ相応シク力強ク和ヤカニ隣組部落会町内会等ヲ中心ニ
明朗且ツ健全ナル団体的娯楽行事ヲ行ヒ団欒ヲ通シテ近隣ノ結束ヲ固メ一朝
有事ノ際ニ備ヘルコト 』
とあり、隣組の結束を促している。このようにして、村長から各常会長宛の通達は、枚挙に遑がない。」

行財政「治安・兵事」の項より。
「在郷軍人会とは、現役として現在服務していない軍人の団体である。(中略)日本の場合は、動員組織としての会であることの外に、天皇制による国民統制の組織たるの役割をもっていた。
 明治43年(1910)11月3日東京九段偕行社において、それまでばらばらだあった各種団体をすべて統合し、皇族の総裁伏見宮貞愛親王を奉戴して、帝国在郷軍人会の発会式が挙行された。これをうけて弓削においても、従来の所属、恐らく戦友会であろうと思われるが、そうした団体を解散して、帝国在郷軍人会弓削村分会を結成し、帝国在郷軍人会松山支部及び同会越智郡連合分会の管下に所属し、こうした形で終戦をむかえることになる。
 弓削村分会においても、宿泊訓練を行った。宿泊所は、旧役場に接属していた公会堂と昭和座がよく利用された。何十名もの者を収容することは、他の場所ではできなかったためである。宿泊訓練中は、いっさい家庭へ帰ることは許されず、夜は不寝番をつけ、舎外には歩哨を立てた。さながら兵舎の生活であった。昼は商船学校の校庭を借用して、各個教練の指導が行われた。また野外での演習も行われ、最後は両軍主力の衝突決戦をもって終わった。またある時は、自性寺の境内に集まり、銃剣術の訓練をした。生名分会、岩城分会などと他流試合を行って、互いに腕をみがきあった。その当時、分会には銃剣術の防具50組と木銃50本があった。
 在郷軍人分会の今ひとつの任務として、婦人会や女子青年団に、バケツ送法などによる防火訓練を指導した。
 軍部は在郷軍人会を重くみていたのであろうか、各分会には、実弾が分配されていた。また各分会には、連帯旗にも比すべき分会旗があり、会員は分会旗と行動をともにした。
 敗戦となり、弓削分会では、先の実弾を松山連隊区に返上にいったところ、分会で始末せよとのことで、弓削に持ち帰り海に沈めた。また分会旗は、松山連隊区より焼却命令がきたので、弓削神社の境内で焼却した。銃剣術の防具は焼き、木銃は鍬の柄として利用した。」

産業「近代の産業」の項より。
「戦時統制の急進行する中、昭和18年9月11日農業団体法が施行され、農会と産業組合を統合し弓削村農業会が設立された。以来、食糧の管理と強い統制を推し進める実行団体として戦争政策推進に邁進することとなった。」
「漁業組合(漁協)は、(中略)昭和16年、太平洋戦争に突入すると統制経済のもとに戦争遂行の組織体となり、さらに昭和18年の水産業団体法によって一市町村に一漁業会と強制的に整理統合された。」

産業「海運と船員」の項より。
「太平洋戦争勃発により、昭和17年(1942)3月25日戦時海運監理令が交付され、主な内海航路はすべて船舶運営会の監督指導のもとに運航されることになり、業者も統合され、戦争が激しくなるに従って多くの船舶が軍に徴用されたり、油が統制され、定期客船の運航回数も減少していった。」
「第一次世界大戦の勃発により一時活況を呈した日本の海運、造船界も戦争終結と共にその反動による不況は深刻なものがあり、船腹過剰は次々と?船を生み、因島造船所の沖合には日本郵船の欧州航路の船が次々と?船され、無残な状況となった。
 船員も不況にあえぎ、乗るに船なく、他産業に転向する者も多くなった。おりしも日本では大東亜共栄圏政策により満州開拓、進出が始まった。若い人は次々と満州の新天地を求めて進出し、船員も数多く転出して行ったのもこの時代であった。
 続いて満州事変がおこるや、たちまち燎原の火のように上海事変・日中戦争へと発展し、内外の荷動きは軍需物資の動きにつれて活発となり、帆船は補助機関付となり世にいう機帆船時代を招来した。この時代、弓削でも帆船持ちは多くが機帆船に転向した。」
「太平洋戦争終結の昭和20年(1945)の春、四国海運局において、管内で親子二代以上にわたる船員家庭を表彰しようとした時、23家庭のうち22家庭が弓削で占められていたので、高松で行う予定であった表彰式を、局長以下弓削に出張し、商船学校講堂で行った程の海員村であったため、戦没者も多く出た。
 戦禍による船腹量の損失も多大で、引揚者の増加した昭和23年には船員121名に対し、日立造船等、造船所勤務者が572名と逆に5倍近い数字を示すようになった。」

教育「学校教育」の項より。
「昭和3年5月25日、呉鎮守府司令長官谷口尚真大将が教育査察のため来校されて以来、昭和19年まで毎年長官または代理の将官が来校され、海軍の重要な予備員を養成する商船学校の生徒に時局の重大性と覚悟をうながしている。
 昭和14年の島田大将の訓示の中には、『欧州に勃発せる大戦の波及は予断を許し難く帝国海軍の使命いよいよ重大を加えんとす』等の言葉があり世界戦争に発展して行きそうな雲行を暗示していた。
 爾来、激しい戦争のさなかにも査察は続けられ帝国海軍がその人的資源として商船学校生徒の常時掌握をいかに重要視していたかを伺い知ることができる。
(中略)
このような世相、戦時下の商船教育も当然のことながらしだいに軍事色の濃いものにならざるを得なかったのである。
 すなわち、昭和11年には呉鎮守府より配属武官、特務中尉河本傳太が着任し、続いて昭和13年には派遣教官一等兵曹鶴岡権治、荒木伝三が来て学校教練の強化充実が計られ、生徒は学業より軍事教練に重点がおかれ、しばしば発火演習ならびに大三島、壬生川、方面に練習船で敵前上陸演習等が行われるようになり、昭和16年弓削商船学校報国団が結成されるや連日直接戦闘に参加した場合に備えた練成と特攻精神の高揚教育が行われた。
昭和20年7月、太平洋戦争もいよいよ末期的症状を呈してくると運輸省海運総局長より、『機帆船等に関する教育施行の件通牒』あり、戦局の推移により機帆船その他小型船の教育をするようにとの指示あり、追って海運総局船員局長より、『現段階に於ける教育方針に関する件依命申進』あり、義勇戦闘隊を編成して臨機応変独断専行し宜しきを得るよう、先輩戦友の屍を乗り越え決死海上輸送に突貫すべき特攻精神練成を重視すること、となったのである。」
「昭和14年米穀配給統制法が公布されると、国民の食糧事情は日増しに逼迫して来た。
 昭和19年、太平洋戦争が末期的状況になるに及んで食料は急速に不足して来た。(中略)
 ことに商船学校のように全寮制の学校では生徒の三度の食事に困った。それも並大抵の困りようではなかった。
 全寮生240有余名は20歳前の育ち盛り、食べ盛りであり、加えて日夜厳しい教練に明け暮れているので生徒にだけは栄養の低下と空腹をさせまいと当時の田口校長は随分と骨を折ったようである。校庭の大半は掘り起こされて甘藷、麦を作り、御崎の丘の荒地をかりて麦を蒔き、カボチャを植え、教官も陣頭に立って鍬、鎌を振ったという。」

行財政「治安・兵事」の項に、太平洋戦争で亡くなった戦没者に関する記載がある。それによると、弓削の戦没者は、297霊となっている。内訳は、軍人192霊、軍属162霊、その他6霊である。
軍属には、陸軍軍属と海軍軍属とがあり、その他6霊には、海軍予備練習生1霊、義勇軍1霊、女子挺身隊2霊、額と隊員1霊などが含まれているそうだ。
 この記述に続けて、戦没者名の記載があるのだが、最期を遂げた地は実に様々で、日中戦争における中国大陸各地をはじめ、ノモンハン、蘭印、ルソン島、ニューギニア、ガダルカナル島、南洋群島、カロリン群島、モルッカ群島、ビスマルク群島、ビルマ、仏印、台湾、スマトラ島、ラバウル、ボルネオ、沖縄・・・・とひたすらに続く。長期かつ広域に展開した戦局にこの島の人々も巻き込まれていったことが見て取れる。中には因島造船所内というのもある。弓削島の目の前の因島は、造船根拠地ということもあって爆撃を受けていたのであろう。戦後数年間においては、ソ連領の地名もいくつか見受けられる。シベリア抑留を受け、終戦を迎えてなお生まれ育った島から遠く離れた極寒の地で、失意のうちに最期を迎えなければならなかった人たちの無念が伝わってくる。

 以上、当時を知るには充分な資料とはいえないが、それでも戦争というものが瀬戸内に浮かぶ小さな島をも例外とせずに巻き込んで、人々と地域の運命を翻弄したことはうかがい知れる。
 この事実から教訓を得ようとするつもりはないが、戦争というものが教科書やTV画面を通して感じるほどは、遠い世界のことではないと思った。
 戦争において犠牲となった数多くの魂に哀悼の誠を捧げたい。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://bb.lekumo.jp/t/trackback/386070/21023877

このページへのトラックバック一覧 島と戦争:

コメント

コメントを投稿

« 祝・開園! | ホーム | 松山、坂の上の雲、しまの会社。 »

Copyright (C) しまの会社 All Rights Reserved