希望の島プロジェクト 仲間たちのブログ
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ラッキー7の節目にあたり ~ 退任の挨拶

 暑さ、寒さも彼岸までと言いますが、最近めっきり朝夕が冷えてまいりました。

 天高く馬肥ゆる、この良き季節に、しまの会社は毎年誕生日を迎えます。
 島では、秋祭りの御囃子があちらこちらから聞こえてくる賑やかな月のはじめに、「島民の、島民による、島民のための会社」をうたうチャレンジは産声をあげたのです。

 しまの会社は、明日10月1日、満7歳となります。

 過疎高齢化、産業空洞化といった時代の流れの中で、7年間存続しえたのは、偏に、島内外の沢山の方のご支援、ご指導、ご尽力によるものです。
 謹んで感謝申し上げます。

 そして、このラッキー7の節目に当たり、これまでへっぽこ代表として、多くの方に叱咤激励を賜りながら遅々たる歩を歩んでまいりました小生兼頭一司は、代表取締役を退任することとなりました。
 これまで数え切れないご縁とご恩を、本当にありがとうございます。
 一人ひとりにお会いしてお礼を申しあげるべきところ、非礼をお許しください。

 明日から新たに代表の任につくのは数多のメディア出演でもおなじみの地域おこしのリーダー、村上律子しまの会社現取締役です。村上は、 当社の立ち上げより、陰に陽に中心となって運営に当たってまいりました。そもそもそのずっと以前より、しまの会社の母体となる地域活動をを引っ張ってきたのが村上です。

 村上のもつ経験、実績に基づく信頼と、島内外の広いネットワーク、生来の推進力を活かして、しまの会社の新たな発展を描くことを企図しております。

 新たなスタートを切るしまの会社に、更なるご支援、ご指導を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

 平成27年9月30日
 へっぽこ(本日まで)代表(明日からただのへっぽこ)・兼頭一司

『幸せ餅』

 本日は、旧正月。

 中国での春節の盛り上がりは、爆竹の音と煙、帰省の大混雑などの映像とともにニュースとして見慣れているが、日本に暮らしていて旧正月を意識することはほとんどない。
 ましてや、「旧正月のお祝い」などという行為は、古い慣習が一部に残る島の暮らしの中でもまず見られない。

 ・・・と思っていた。
 お世話になっている大谷地区の皆さんからお誘いを頂く、その時までは・・・。

 その電話があったのは、先日のこと。
 「旧正月が近いけん、もちつきするけど来る?」


 もちつきとは、月でウサギさんがやっている、いわゆるもちつきのことである。(私にはあれがウサギに見えたことがないのだが・・)
 ウサギさん同様、杵と臼でつくという。

 「旧正月なので、もちつき!?」
 耳にするだけで、胸がときめいた。


 かつては私の実家(愛媛県西条市)でも餅をついていた。
 もち米をせいろで蒸して、たまにイベント的に杵と臼でつく以外は、大方「もちつき機」なるものが代わりについてくれていた。
 毎年末繰り返されるその光景は、私の脳裏にもしっかりやきついている。
 しかし、年老いた父親が一人暮らしの今、「もちつき機」も、まして「杵と臼」の出番もない。
 しかも、それは新正月。「新」と言うのもはばかられるくらい現代日本人がもうずいぶん長いこと慣れ親しんでる新暦の正月の話だ。

 旧暦の正月を、家でついたお餅を食べて迎えよう、なんて素敵な試みに胸がときめかずにいられようか。

 といいつつ、もちつき当日は仕事で、肝心のもちつきには参加できず、そのあとの懇親会にやっとのことで合流。うちの息子(7才)も父に代わって(?)つかせてもらったという、つきたての餅を、(旧正月を待ちきれず)いただいた。

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 島に来てから、お祭りの時など、杵と臼で餅をつき、食べる、という機会は何度かあったが、つき方によっても食感に差が出るもので、大谷のお餅は、きめが細かく舌触りが滑らかで、コシもあり、そのまま何もつけずに食べても実においしい。
 いつも家族のように迎えてくれる大谷の皆さんに囲まれて、家族のような皆さん(と家族)についてもらった「最高に美味なる」餅をほおばる。
 これはもはや「もち」をほおばっているのではなく、「幸せ」をほおぼっているのだ。


 そんな「幸せ」を袋いっぱいにつめて持ち帰り、ふと昔の島のお正月はどんな感じだったのだろうと、『弓削民俗誌』を開いてみる。

 かつて、正月には「年神様」と呼ばれる正月の神様が各家庭に降りてくると考えられていたそうで、年の暮れに、年神様を迎えるために、神棚の棚板や、鋤・鍬などの農具を洗い浄め、家の内外の掃除をして正月の準備をしたようだ。
 年神様の依代(宿る場所)として、縁側の前のカドや、門口に門松を立てたということなのだが、面白いのが門松をつくるための松をどうするか、という話。
 今は松枯れ病の蔓延で、松も貴重だが、昔は瀬戸内の島と言えば山々を松が覆っていたと聞く。当然門松の松も、山から調達するわけである。
 ただ、荒れ山だらけの今ではピンと来にくいのだが、その辺の山に分け入って、山に生えるものを「自然の恵み」と勝手に頂戴することは許されていなかった。
 ところが、こと正月の門松に関しては違っていたようで、持ち山がない人も、正月の門松の準備のためなら他人の山の松を切っても許されたので、どの家でも必ず門松があったということなのである。

 昔の人の、信仰心の深さや規律と寛容のバランス、粋をも感じさせるいい話ではないだろうか。

 ちなみに戦時中は、松が育たなくなるので、松の芯の枝を切らずに横枝を切るようにという指導があった。(太平洋戦争は、油をめぐる戦争といってもよい。石油資源のない日本は、後半戦、松から油をとるという苦心を強いられた。そのため弓削島の名所、松原に数多く生えていた大きな松たちも、大方が徴用の憂き目にあったのである。)
 さらに一時期はそれもままならず、役場から印刷された門松の絵が配布されて、門松の代わりに貼りつけた時もあったが、すぐに止めた、とある。行政に時々おこる滑稽なばかりのちぐはぐさというのは、今も戦時中も変わらないのだな、と妙に合点がいった。

 元旦は、早朝まず当主が「若水」(元旦に最初に汲む水)を汲むことに始まったそうである。柄杓やバケツは必ず新調したとのこと。若水は湯を沸かしたり、雑煮を炊くのに使ったとある。
 正月三が日の雑煮は当主が炊くという家もあれば、炊くのは女の人だが、お供えの上げ下ろしは必ず当主がするという家もある。雑煮に限らず、正月の準備すべて、当主あるいは当主に準ずるものが行う。

 とここまで読んで、ため息をついた。
 昔の正月は、心豊かで、神聖で、季節感に満ちたものではあるかもしれないが、この本によれば、餅をつく行為一つとっても、何種類もの餅を作り分け、半日から一日かけてついたというし、門松、注連縄、鏡餅など、正月飾りも一種類ではないのだ。若水を汲むと一言で言っても、水道をひねれば水が出てくる時代ではない。まして島は昔から水に困窮してきた。井戸のある場所も限られるのだ。
 さらに読み進めれば、大正月(三が日)が終わると四日の正月送り、七草粥を食す七日正月、十五日の小正月、二十日正月、ヒテイ正月(月遅れの正月)など、正月にまつわる行事が、まだまだ続くではないか。
 そして何より、正月行事に関わる重要な任務は「当主」が執り行うのだ。

 大谷から持ち帰った「幸せもち」をほおばりながら、年末も年始も旧正月もなく女房を酷使して、およそ「当主」と呼ぶにふさわしくない我が身を反省しつつ、松を採りに山に入り、井戸で水を汲みあげる労をとらずとも、好きなだけ餅をほおばっていられることの有難さをかみしめ、この「幸せもち」は、自分が思っている以上に「幸せ含有量」が高い「幸せメガ盛りもち」なのかもしれないと思って涙ぐむのであった。

 へっぽこ

備えあれば

 あと数日で阪神大震災から丸20年が経過する。
 震災の年に生まれた子供が今年成人になるわけだが、「もうそんなに経ったのか」と驚くぐらい、あの日ブラウン管を通して見た映像にはインパクトがあった。
 しかし、だからといって、大災害を対岸の火事としてでなく、自分の身にも起こりうる問題としてどの程度意識できているかとなると甚だ心もとなくなる。

 本日、弓削島地区は、突然の断水に見舞われた。たかが断水、と思われるかもしれないが、予期せぬライフラインの遮断に対して、いかに自分が準備できていないかを知ることとなった。
 「30分後に急きょ断水。」との防災有線放送があったという連絡を受けたのが10時半。今一つ状況がつかめず町役場へ問い合わせたところ、復旧の目途は不明とのこと。あわてて会社や家族に、断水時間までに水を貯めておくなどの対応をお願いをしたのだが、上下水道をはじめ、電気、ガス、はたまた食糧、生活物資や交通網、住居、衣服にいたるまで、あるのが当たり前の生活に慣れ切っていて、ない生活に想像力を働かせてみることを、まるでして来なかった自分に愕然としてしまった。

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 幸い、数時間のちに無事復旧し、貯めた水を少しずつ大事に使う暮らしには及ばずにすんだ。島では、知り合いから一軒家を借りて家族三人暮らしているのだが、風呂は、薪で炊ける作りになっているので、いざということを考えて断水前に水を貯めてあった。
 せっかくなので、資料の整理で出た紙くずを燃やし、久しぶりに風呂を焚いた。薪ではないが、それでも窯で炊く風呂は体の芯からあったまる。
 風呂焚きで冷えた足を湯船でよみがえらせながら、昔の人の、大変だけれども心豊かであったろう暮らしに思いをはせる。
 ひるがえって現代の便利な暮らしに感謝しつつも、それらに依存し、有事への備えを欠く我が身を、大いに反省してみる年初めの或る一日の終わりであった。

 へっぽこ

桜の谷の歌

私の住む久司浦(くじら)集落は、集落の民から「くじらの谷」と呼ばれている。

弓削島で一番高い三山(みやま)の谷間が海に向かって広がる小さな扇状地に、この集落が鎮座していることが理由だ。
朝夕、山から冷んやりとした風が下りてきて、夏でも思いのほか過ごしやすい。

その谷を上っていく道がある。
弓削島最北端のこの集落から、同島最高峰の中腹までのぼり、山襞をうねりながら上弓削地区に向けて島の西斜面を南下するルートなのだが、普段この道を通る人はほとんどない。

畑の帰りに偶然出くわしたHさんが、「三山は桜が見ごろだぞ。」と教えてくれた。
今夜には花散らしの雨が降るだろう、とのことだったので、久しぶりに車を山へ向けた。
毎日仰ぎ見ているこの近所の山の山道を、桜の季節に上るのは、島で経験する8回(久司浦に住んで7回)の春の中でも実のところ初めてだ。

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ひと気のない上り坂をいくと、3分もしないうちに淡いピンクのトンネルが谷の下の住民を出迎えてくれた。
谷の出口である海側から山を見上げた時にはわからないが、結構な数の桜が沿道に植わっている。

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この桜が植えられたのがいつ頃なのか私は知らないが、かつて桜を植え、ずっと管理してきた人たちがいることは知っていた。
「三山会」を名乗る久司浦集落の男たちだ。
都会(まち)に出ていった同輩たちが帰ってきたときに、歴史ある集落の誇りであるこの山を、花見しながら散策できるようにと、長きに渡って山を手入れしてきた。

しかし、島の中でもとりわけ自尊心と結束の強いこの谷の猛者たちでさえ、時代の変化には抗うことはできなかった。
ボランティアで広く大きな山を手入れし、維持するには、この集落は、人が減りすぎており、そして年を取りすぎてしまった。

山は荒れ、桜の枝にも葛などの弦が巻き付いてきている。イノシシが崩したような山肌や落石がそこここに見られる。


それでもこの花道は集落の誇りを、猛者たちの心意気を、十分に感じさせてくれる。

一年に数日間だけ咲き乱れ、そして散り行く三山の桜の花びらたちは、魂を谷にささげた久司浦の男たちの夢の舞にも似て、美しく、そして哀しい。

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へっぽこ代表

※facebookでも活動公開中
http://www.facebook.com/shimaotoko

春の陽のように。

四月。
温暖なはずの瀬戸内の島々が雪化粧をした厳冬が、まるでジョークだったかのような春爛漫の陽気。

燦々とふりそそぐ陽の光を受けて輝く海面。
色とりどりに咲き乱れる花々。
それらに誘われるように、人々も活発に動いているように見える。

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島で7度目の春を迎え、島で育ったわが子も7歳を迎えた。
春の陽のエネルギーを全身に受け、咲き誇る花のように、冬ごもりの巣を出ていく虫たちのように、潮に乗って上ってくる魚たちのように、動き出そう。
春風に歌う鳥たちのように、新しい日々を楽しもう。

へっぽこ代表
※facebookでも活動公開中
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新年明けましておめでとうございます。

新しい年が、たくさんの皆さんにとって、良い年でありますように。

本日、しまの大学の案内で訪れた島民学生の方から新鮮なお野菜をいただきました。

皆様への感謝と幸せのおすそ分けの気持ちを込めて、賀状風にしてみました。

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どうか本年もご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

へっぽこ代表 兼頭一司 拝

島と祭りと子供たち

今年も秋祭りが近づいてきました。

10月は、島中が何やら、わくわくソワソワそぞめき立つようです。

毎日どこからともなく子供たちの練習する太鼓の音が響いてきます。
通りには、のぼり旗や提灯がぶら下がっています。

特に、わが久司浦集落の男連中は、10月が近づくにつれ、にわかに殺気立ってきます。
なぜなら、毎年秋祭りでは、となりの集落と、だんじり同士の喧嘩(ぶつかり合い)をするからです。
毎年のように、祭りに向けて早い時期から原木から切り出した丸太を削り、だんじりを組み立てていきます。

子供たちは、祭り本番では、喧嘩が始まる直前までだんじりの上で太鼓を叩きます。
昔はこの「だんじり子供」になることを子供たちが競い合ったそうですが、今は久司浦集落には小学生が三人。
中学生や高校生を入れても人数が足りず、久司浦に関わりのある人(出身者、親戚など)の子供を借りてきます。
そもそも子供だけでなく、だんじりの担ぎ手となる大人も足りず、同様の問題を抱える島内各集落同士が話し合い、現在(10年ほど前からでしょうか)は、日程を分散させて、お互いに人を融通させているのです。

それでも毎年人が減るので、今年は、だんじりも一回り小さくなるそうです。
少し寂しい現実ですが、でも工夫して支え合って伝統文化を残そうという島びとの心意気は悪くない気もします。

その「だんじり子供」に、今年小学校に上がったうちの息子・玄(はじめ)もいよいよ仲間入りとなりました。
初めてこの島に来た時はまだ一歳に満たなかった我が子が、まだまだ先と思っていた「だんじり子供」になったということ。かつては島っ子の垂涎の的だった太鼓台に、島外からの移住者である自分の子が乗せてもらえるということ。様々な感慨が巡ります。

もちろん当の玄は、当然そんなことを気にとめる素振りもなく、今夜も集会所に集まった「だんじり子供」のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちと一緒にわいわいやりながら、太鼓台の柱や欄干、金具をせっせと磨いておりました。

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しまの会社、5歳。

 本日、しまの会社を設立して、丸5年となりました。

 「島民の、島民による、島民のための会社」をかかげ、コミュニティカフェ(しまでCafe)、耕作放棄地再生(しまの畑)、しまの大学、藻塩づくり(弓削の荘「東寺献上弓削塩」)などが、この「島国のなかの島国」から始まりました。

 たくさんの出会いがあり、また別れがありました。

 個人的にも、6年近く前にこの島と出会ってから、移住、家族との死別、選挙など、振り返ればバラエティに富んだ日々だったと思います。

 今思えば、反省ばかりしていたように思います。
 5年前に掲げた理想が、今実現できているだろうかといえば、しどろもどろの返答しかできないかもしれません。
 石の上にも、なんてもんじゃなく、針のむしろか、氷の上か、と思っちゃうことだってありました。

 ですが、5年という節目を迎えて思うことは、反省もなくっちゃダメだけど、やってこれたことの奇跡を喜び、それを支えてくれた人々に感謝し、たとえ小さくても、それらの実績やご縁の一つ一つを活かしきっていくことの方がもっと大事だったって事です。

 その上に次の5年もある。時は絶え間なく流れ続け、節目節目で途切れるわけでないけれど、リセットボタンがそこにあるわけでもないけれど、それでも僕らは生まれ変われる。前を向いて、また新しい一歩を踏み出すことができる。

 だから人間って悪くないね、って思うのです。

 さて、次の5年。どうやるか。

 へっぽこ代表 兼頭一司

ぴっかぴかの

長男が小学校に入学した。

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弓削小学校新一年生は、男子6名、女子11名の計17名。

私と同年代が小学生のころ、弓削小には一学年に40人学級が2つ以上あったそうだ。
旧弓削町には、別に佐島小学校もあった。

産業の衰退、人口減少と流出、少子高齢化。
離島に限らず、全国のいたるところで進行する現象だ。
ここではアベノミクスも株価高騰も違う世界の出来事のようだ。
空前の金融緩和や、TPP参加に歓喜する人もいなければ悲嘆にくれる人もいない。
自治体財政の頼みの綱である交付税の削減ですら、話題に上ることなどない。

充足なのか諦めなのか、平穏なのか衰亡なのか。
この島の時間も営みも春のまどろみのごとく溶けて消えるかのように思えてくる。

それでも、やわらかな日差しの中、島の子供たちは、少々スペースをもてあます教室で、精いっぱい何かに向かおうとしている。
島に来た時には、ただ這うことしかできなかった倅の、彼なりに力強く踏みしめた歩みを見るにつけ、人間とは成長を糧として生きる生き物であると気づく。

環境を嘆く前に、今ある環境の中で成長をなす道を見つけ出せ。

未知の水洋へと帆を張る、小さな冒険者たちが教えてくれている。

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へっぽこ代表

弓削塩献上式

弓削島は、塩の歴史が長く深い。

弓削島周辺では、世界で活躍する考古学者・愛媛大学の村上恭通教授の研究チームが古代製塩遺跡の発掘を続け、学術的価値の高い発掘成果が出ている。

古代は、海藻に付着した塩を海藻ごと焼いて抽出する製塩方法で生産され、「藻塩(もしお)」と呼ばれる。

中世、瀬戸内海では、入浜式の塩田による製塩方法で製塩が盛んに行われ、弓削島でも平安期には、昨年の大河ドラマ「平清盛」でもおなじみ、後白河法皇をはじめ、皇族、貴族の荘園として中央との結びつきが強かった。

長くは、鎌倉期以降の京都・東寺(教王護国寺)の荘園としての歴史である。
東寺は四国ともゆかりのがある弘法大師・空海が嵯峨天皇より下賜された寺院で、現在は世界遺産にも登録されている。
新幹線からもよく見える五重の塔が印象的である。

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国宝となっている歴史的文書『東寺百合文書』には、弓削島荘に関する記述が多く残っており、網野善彦氏など著名な歴史学者により、しばしば触れられている。
昭和56年には、現皇太子殿下が中世史の研究で弓削島の史跡を訪れている。

その弓削島の製塩の歴史は、製塩製法の変化や塩専売化により昭和中期に途絶えた。


これまで我々は、古代製塩遺跡発掘体験ツアーや古代藻塩づくり体験プログラム、塩をテーマにした現代アートイベント「日仏交流美術展Le Sel ~塩」等を開催してきた。
そして、2011年4月、約一年の準備期間を経て、『東寺献上 弓削塩  あまも/ひじき』の生産を開始した。
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『東寺献上・弓削塩』は、前述村上教授の指導のもと、古代の手法を現代版にアレンジした製塩方法で製造する藻塩であり、かつ元の荘園領主である東寺に献上している。
毎年、4月1日に、弓削島より東寺へとその年に生産された藻塩を運び、東寺に収める献上式を行っている。
そして、さる平成25年4月1日、三回目となる献上式が無事行われた。

名刹の荘厳な空気の中、東寺長者(東寺管長・最高位の僧侶)である砂原秀遍師に、『東寺献上・弓削塩』を生産する村上知貴・弓削の荘代表から塩が手わたされ、時空を超えて歴史がよみがえる儀式が完了した。


地域の歴史を知ることは、地域に対する誇りを強くする。
地域の未来は、地域の誇りが作っていく。

弓削塩の一粒一粒は、島の未来にかける思いの結晶なのである。


へっぽこ代表


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